私は尊厳を持って死ぬのだ
水商売を卒業して、看護師になって1年が経ちました。
血液内科の辛さにも慣れ、初対面の看護師さんに「血内…大変ね…」と苦笑いされる度に「けっこう楽しいですよ」と言えるようにもなりました。
人が死ぬところに何度も立ち会いました。
学生の頃、在宅医療や家庭医療に興味があって、そういう分野の先生方に聞く人間の最期の姿というのは、余計な輸液をせず、自然のままに、家で穏やかに迎える感動的な場面でしたし、それが理想の最期だと心から思っていました。
就職して、血液内科に配属になって最初に入った処置は、移植後の、免疫の拒絶反応で新しい細胞が全身を攻撃して身体中の皮膚が火傷のように剥けている40代の女性のご遺体のケアでした。
その翌週には、白血病で辛い抗癌剤治療をしたにも関わらず、半年で再発した方をお看取りしました。
ひと月で10人近くが亡くなる病棟に私が思い描いていた「理想の最期」は存在しなくて、そこにいる患者達は大量の点滴を身体に入れながら、浮腫で元の顔すら分からなくなり、血小板の作られない身体は横たわるだけで全身痣だらけになって、挿管されたチューブに血を流しながら、それでも「きっと明日は良くなる」と想いながら、最期の日を迎えていました。
大学を卒業したての、人間の最期というのはこんなに凄惨なものなのかとなかなか受け入れられない私の話を何かと聞いてくださっていた医師は「血液内科は闘う病棟だからね」とお話ししてくださいました。
「急に状態が悪くなった時には心臓マッサージも何もしないでそのまま死なせてください」と予め医師に伝え、自然な死を迎えるDNAR(Do Not Attempt Resuscitation)、及び“尊厳死”が、特に高齢者の多い病棟の中では広く使われていますし、確かにそういう意思表示をした方の最期は穏やかで、どことなく安心感があります。
それでも、毎週のようにご遺体に化粧を施すこの1年で感じることは、血だらけになりながら闘い切って疲れ切った亡くなり方は、悲しくてどうしようもないけれど、ご家族にとって、一分の隙もない清々しさがある、と。
もちろん亡くなったご本人が最終的に清々しいと思っていたのか、それとも闘いを後悔しているのかなんて今となっては誰にも分からないのだけれど。
そう思うと、言葉の端を捉えているだけだとしても、特定の最期の迎え方を指して“尊厳”死と名付けていることへの違和感が拭えないのです。
友人が、「DNARを拒否した90歳近いおじいさんへの救命措置やったけど、なんでそんなことしてるのか分からなかった」と話していた時、患者の望みに合わせた医療を提供することよりも、世間で言われている「良い死に方」に友人が飲み込まれているようで怖かった。
目の前の人間ひとりひとりについて正面から考えるよりも、一般の中で是とされている概念を当てはめていった方がきっと自分が楽に生きられる。というよりも、どんな考え方にも依らずに中立的でいることはきっととても不安で、どちらかに偏ることでバランスを取ることも人間らしさなのでしょう。
それでも、自然に任せて亡くなる方だって、どんな状態でも生き延びようとする方だって私にとっては同じように尊い存在であって、そこに優劣をつけられるほど人間様は偉くないと思う。
本人の意向を無視した必要のない救命措置によってただ漫然と生命が延びる、誰にとっても不幸な状態を防ぐためにある筈の“尊厳死”が、あらぬ方向へと向かってしまうことのないように。あくまで患者の望む生き方、死に方を支える存在であれるように。
学生の時から荻上チキさんが大好きで愛読しているシノドスの記事が、今になって改めて重たく感じる、2年目看護師の始まりです。